2 真のハーモニクス、偽もののハーモニクス 

 私たちのいのちがハーモニクスであり、毎日楽しく生きるのが本来の姿であるのなら、どうして悩んだり、病んだり、苦しんだりするのでしょうか。どうやらそれは人間だけの問題のようです。悩んで咲いている花とか、木とか、苦しんでる トンボやミミズなんて聞いたことないですから。

 人間が他の生き物と決定的に異なるのは、考えるということです。

 つまり脳の問題なのです。

 考える脳。こんなに大きく進化した大脳を持った生物は人間以外にはいません。大脳、そしてその大半を占める大脳皮質が人間の様々な病苦の元を作り出していると言っても過言ではありません。あなたは冷暖房完備の高級住宅に住み、毎日ホテルのディナーのようなごちそうを食べ、いわゆる世間では羨ましがられる生活をしているかもしれません。でも本当に快い、ハーモニクスな生活をしているでしょうか?

 もしかしたら、あなたのからだは、本当は気持ち良く感じていないかもしれないのです。私たちが頭で「気持ちが良い」と思っていることでも、実はからだにとっては「不快」なことがあるのです。というより、現代の私たちのライフスタイルそのものが、からだにとって気持ち悪いことが多いのです。食べ物を例にとってみましょう。誰でもおいしいものを好きなだけたべることができれば幸せです。でも、そのおいしさに本物と偽者があると言ったらどう思いますか。

 みなさんは、おいしいと感じるのはからだが必要としているからだと思っていますね。しかし、おいしいと思って食べていたものが、実はからだには毒かもしれないのですよ。大好きなケーキやチョコレートはどうでしょう。思わず生唾が出てしまいませんか? 当然、あなたは自分のからだが欲しがっているからだと思うでしょう。

 でも実際は、ケーキやチョコの甘み成分である砂糖分がからだに入ると、殆どの人のからだは瞬間的に拒否反応を示すのです。砂糖の中でも特に白砂糖は、私たちのからだがもっとも嫌がる食物と言ってもいいもので、殆ど毒に匹敵するものです。砂糖は細胞質や膜をぶよぶよに膨張させ、大切な栄養分や成分が流れ出てしまいます。

 つまり、からだからエネルギーを奪ってしまうので、からだは冷えてしまいます。「疲れているときに甘いもの」というのは全く間違った迷信です。確かに疲れているときはからだの血糖値が下がっているので、糖分が入ると瞬間的には元気がでますが、取りつづけると却って疲れは増し、慢性疲労になってしまうのです。

 ウィルスやバクテリアに感染している人は、砂糖にはさらに注意が必要です。細菌゙は砂糖を食べて増えていきます。あなたは自分のからだがケーキを欲しがっていると思っているでしょうが、実は彼らウィルスやバクテリアが甘みを欲しがっているのです。つまり、あなたは彼らを飼って、えさをやっているのです。

 おいしいと思っていたケーキが急にそうではなくなりましたか? では、そんなにからだに悪い砂糖をなぜ私たちはおいしく感じるのでしょう。それは先ほど述べた脳の働きに関係しているのです。

 私たちの日常行動は、全て大脳皮質によって支配されています。ここで考えたり、記憶したり、判断したりして、私たちの日常の行動が決定され、暮らしが成り立っています。さて、チョコレートケーキを一口食べると、砂糖が当然からだに入って、消化器官の胃や腸は神経システムを通じて脳に危険信号を送ります。「おいおい、こんなものいれちゃ困るよ。苦しいからもう止めてくれ」と言って、ケーキを食べないよう指令を出し、あわててケーキを吐き出すのが、正常なからだの反応です。ところが困ったことが起こります。血管に多量に流れ込んだ砂糖が脳に入ると、脳神経は眠らされてしまうのです。つまり麻痺状態になってしまいます。

 そうなると、からだからの危険信号がキャッチできません。この脳が麻痺し眠った感じをあなたは「きもちいい」と感じ、それを「おいしい」と勘違いしてしまうのです。いったんこの状態を経験すると、脳はこの偽りの「快感」をいつも覚えていて、常にそうなることを要求してきます。これが中毒という現象です。私たちの多くは砂糖中毒なのです。この砂糖のように、脳を眠らせてしまうものが、私たちの暮らしの中にたくさんあります。身近な例は、たばこやアルコール、ドラッグがそうでしょう。

 しかしもう少し見方を広げると、私たちの現代のライフスタイルそのもの全てが、この中毒作用を持っていると言っても過言ではありません。人はお金や権力、そして学歴や知識といったものにも中毒しています。持てば持つほど、もっと欲しくなってしまう。

 私たちは、大脳皮質というからだの一部に過ぎないものだけを喜ばす偽りの気持ち良さ(おいしさ)ばかり追求せずに、本当の、真の、からだの全細胞が喜ぶ気持ち良さ(おいしさ)を追求しないといけません。それこそ生命の調和法則の方向なのです。「調和」「快」といういのち本来の姿は、からだの細胞一つ一つが生き生きと活動し、こころがワクワクするような状態をいうのです。ところが人間は考えるという脳活動を持っている為に、偽りの「快楽」にだまされてしまっているのです。

 せっかくからだは気持ち良く生きようとしているのに、あなたの脳はその声を無視して、他のものに頼ってしまうのです。私たちは、人間が作り出した人工的な快適さや快楽にどっぷり浸かってしまっているのが現状です。からだはいつも快方向に従って気持ち良くなろうとしているのに、私たちはどんどん本当の快から離れていくため、その結果からだは悲鳴をあげています。痛いよ、苦しいよ、と。

 それが続くとからだは我慢できなくなって、働けなくなります。それが病気です。

 人類は文明という他の生物が真似できないものを創造しました。便利になること、快適になること、物をいっぱい持つこと、おいしいものを好きなだけ食べることを追求し、その中に幸福があると信じてきました。でも、そのために沢山の生き物が犠牲になっていることも事実です。人間社会の中でも、金持ちが貧乏人を搾取する構造は今も昔も変わりません。それが現在の地球環境汚染を始めとする文明の危機に繋がっています。その原因はひとえに、人間が本当に気持ちいいことをして生きていないからです。他のあらゆる生物は気持ちいいことしかしていません。今こそ私たち人間ひとりひとりが真の気持ち良さに目覚め、自分のからだを快にしてやることが、地球や他のいのちを救うことにつながるのです。

 ハーモニクス・ヒーリングの2本の柱である操体法と総統医学は、それぞれ自分のからだを快い、気持ち良い方向に動かし、あるいは気持ち良い温度で暖めることでからだの内外の歪みをのぞいていくものです。どちらも日本の伝統療法でありますが、生命の調和法則、すなわちこころとからだは常に快い方向に自己を保ち、生きようとしているという法則に則したものです。

 操体法も総統医学も、ハーモニクスの方向を自己のからだに聴きながら、その声(信号・メッセージ)に従って、動かしたり、温めたりします。

 生きるということは常に調和の方向に進む止まない前進運動である、という生命の調和法則に従うなら、私たちにとってもっとも大切なことは、いかに自分のこころとからだの信号を正確に受けとめ、気持ち良い方気持ち良い方へと刻一刻生きていくかということに尽きるのではないでしょうか。操体法と総統医学は、ハーモニクスを生きるために、誰もができる簡単な自己治療術です。私たちの日常を支配しているのは殆どが思考です。より良く生き、充実した人生を送りたいと誰もが願うのは当然のことです。しかし実際にどうすればよいかということになると、本を読んだり、諸先生や知識人、リーダーの話しを聞いたり、あるいは宗教や修行をしたり、精神世界へ入ったりと様々な様式を追求するしかありません。あるいは、世のため人のため、自然環境のためという慈善的貢献をして、生きることの意義を求める人もいるでしょう。しかしそれらが何であれ、いかに素晴らしい目的や意義を持ち、また社会的に高く評価されようとも、本人の心とからだが求める方向と食い違っていれば、そこには必ず歪みが生じます。ストレスといっても良いでしょう。

 その歪み(ストレス)は本人だけのものにとどまらず、その人の関っているものや周囲の人々にも歪みを与えていくことになるのです。人間は文明という他の生き物にはできない創造物を作り始めて以来、他の生き物には起こり得なかった悩みや苦しみを背負いました。人間が自分のこころとからだの求める声を無視し、大脳からの声のみを絶対視して、いのち(からだ)をないがしろに扱ってきたからです。

 有史以来、人間は自然との関わりについて思考をめぐらしてきました。いわゆる自然科学とは人間がどのように自分以外のものや環境を見つめているかを如実に表すものです。そこにあるのは自然を見つめる自分という存在なのであり、自然は自分(人間)にとっての対象物にすぎません。だから自分にとって無意味なものは存在価値を持たないのと判断されてきたのです。その価値判断はもちろん人間の勝手な理由(知識・教育・経験)に基づいて下されます。害虫、雑草などという言葉がそのことを如実に物語っています。本来、自然界に不必要なものは何もありません。全ては調和して存在し、ハーモニックな世界を作っているのですから。

 芸術は科学とは趣を異にしますが、やはりそこに登場する主人公は人間です。文学にはそれを書く人の思考が必要です。そしてあらゆる芸術や文学は、いかに自分が対象物(自然環境や社会や他人)について感動し、また働きかけたかを絵や音や文章で表現したものです。そこに抜け落ちている決定的なものは、自分のこころとからだも自然の一部であるという明白な事実です。自然の一部であるからだは常に声を発しています。

 その声をきくことができる唯一の道は、大脳皮質の働き、すなわち思考を停止させること……つまり自分という存在を無くすことなのです。

 しかし、考えるなといわれても思考は停止できないし、まして自分を無くすなんてことは不可能です。からだが発している声とはなんでしょう。それはいのちの声です。いのちはエネルギーであり、ひとつの音であり、波動です。いのちがある限り、いのちは絶え間なくエネルギーや音を発し続けます。そのエネルギーや音に共鳴するとき、我々の行動は自然と合体します。

 それが真のアートであり、美であり、存在の喜びなのです。人間はいつも生きることの意味や、存在理由を問うてきました。誰もが幸福でありたいと願い、また世の中の平和を願っています。ところがいざ自分の日常を省みると、夫婦の問題、親子の問題、男女の問題、会社や社会での対人関係など、あらゆる矛盾を抱えて、立ち往生しているのが現実です。

 どうしてでしょう。なぜ生きるという本来喜びであり、矛盾のない、快い現象が、苦悩になっているのでしょう。何が間違っているのでしょうか。それはエゴという人間特有の精神活動に、私たちの日常が支配されているからです。真のこころ(ソウル)は、いのちそのものです。何にも誰にも影響されず、絶えずハーモニクスのシグナルを発しています。私たちがその声を聞いて従っている限り、至福であり、その行動には矛盾がありません。したがってその人の社会的活動にも矛盾がなく、真の社会革命の起因にさえなり得るでしょう。

 ところが実際は、殆どの人が真のこころとエゴのこころとの葛藤に翻弄されています。エゴのこころとは、私たちが長年の人生経験で得た知識、常識、教育、良心といった大脳の働きによる精神活動です。この働きは、往々にしていのち(ソウル)の働きと衝突する場合が多いのです。そのために、それが葛藤となり悩みとなります。人間が自分であろうとすればするほど、その葛藤は増大します。ここでいう「自分」とは、その人が頭で考えている自分、つまりエゴの自分のことです。そのような葛藤があると人はますます自分の内へ内へと深く入って、問題を解決しようとします。ところがそれが却って、問題を更に困難にします。

 エゴのこころをどんなに深く探ってみても、結果としてさらに大きなエゴで覆うことになり、ますますいのち(ソウル)は見えてきません。

 ではどうしたら、いのちそのものに触れられるのでしょうか。